・・・・・ STARTER ・・・・・
1993年
手のひらの上で、いつでもどこでも顔を見て会話をすることが出来なくても
約束の場所を声で案内してくれる地図が無くても
それでも
受話器の向こうにいる声からその面影を思い描き
見ず知らずの場所でもちゃんと待ち合わせをし
限られた時間の中で少しでもその人を感じていたくて
そんな不器用でささやかな繋がりの中で
それでも僕たちは誰かを愛することをやめられなかった。
《私のやりたい100のこと》
95.私の中のモノをお話にして外に出す
カオルと 僕と そして今
#1 夜明け前の電話

日向ぼっこをするにはまだ早い季節だが、今日はいつになく暖かい。
僕は緑が濃くなりはじめた芝生に椅子を引っ張り出して座る。
まだ生え揃わない若葉たちも、先を急ぐように日に日に増えて、時おり流れてくる風には、ほんの少し、でも確かに季節が変わろうとしている匂いがする。
そっと目を閉じ、微かな風の音にまどろんでいると、日常の忙しさはまるで夢であるかのように思われる。
僕の目の前で、自分の背丈よりも大きい犬を、今にも転びそうになりながら追いかけ回している子どもと、その子どもを楽しそうに追いかけている母親の姿。
そんな様子をぼんやりと眺めながら、今となっては夢だったのか、現実だったのか、分からなくなりそうな、でも決して忘れる事の出来ない時を思い出していた。

・・・・・ 夜明け前の電話 ・・・・・
それは、夜明け前の一本の電話から、何の予告も予感もなく突然に始まった。
夢の真っただ中、遠くの方で何かが僕を呼んでいる。
いったい何だ。同じサイクルで規則正しいデジタル音。
目覚まし時計か?
でもまだ眠りが足らない。もう少し、と思いながらベッドの中から手を伸ばして、いつもの時計の、いつものボタンを叩く。
音はまだ鳴りやまない。手応えは充分にあったのに。
夢と現実の世界を行ったり来たりしているあやふやな頭の中で考えを巡らし、このまま夢の中へ戻ってしまおうかと思ったとき、夢の中の僕が、その音が電話であることに気が付いた。
やれやれ、電話の音だったのか。
それにしても、今は何時だ?
窓の外はまだ暗いようだけど。
もしかして、これもまだ夢の続きなのかもしれない。
暗い部屋の中を手探りで、まだなり続けている電話の受話器を取った。
「もしもし」
喉の痛みと一緒に、乾ききったごわごわな声が出た。
それと同時に、夢の中ではすっかり忘れていた自分の肉体の重さが重力に引っ張られて体にのしかかってきた。
「もしもし、カオルです。こんなに朝早くにごめんなさい」
なんだ、カオルか。
知っている人間からという安心感と、なぜ彼女がこんな時間に僕のところへ電話をしてきたのだろうと思ったが、いずれにしても、僕の思考力は半分寝たままで、ろくな答えなんて出るはずも無かった。
「ん、大丈夫だよ。どうした?」
「あまり良くないニュースで悪いのだけど」
まわりくどい言い方だが、ゆっくりと分かりやすい優しい声だ。
「あの、テツオが今朝、というより、昨晩遅くに亡くなってしまったの」
「・・・・え?」
カオルは同じセリフを、もう一度繰り返した。
テツオが死んだ?
どういうことだ?
冗談か?
まだ夢の中にいるのか?
カオルはそのまま先を続けた。
「それで、私はたったいま病院から帰って来たところで、これからいろいろな人へ連絡をしなければならないのだけど、いったいどうすればいいのか分からなくて、早い時間で悪いと思ったんだけど、我慢できずにケイジに電話してしまったの。ごめんなさい。」
受話器を握ったままカーテンを開けると外はまだ暗く、人々が動き出す前の独特な静けさがあたりを包んでいる。
夜明け前だ。
僕は無理矢理現実の世界へ戻されて、頭の芯がじんじんと痺れているような感じがしている。
電話の中のカオルの声はしっかりとして落ち着いていて、一言一言をとても大事に選んで喋っている。まるで僕を気遣っているようだ。
さっきどこからか帰って来たと言っていた。ということは、いま一人でいるのか?
「分かった。とにかく今からそっちにいくから。大丈夫か?」
「私、ちょっと疲れていて、それにシャワーにあたりたいの。部屋の鍵はあけておくから勝手に入ってね。」
「ん、分かった。じゃあ後で。」
分かった、って、いったい何が分かったっていうんだ。
テツオが死んだ? なぜだ? 何があった?
とにかく、カオルが一人でいる。急がなくては。
僕は部屋の電気もつけず、窓越しに入る外灯の明かりだけの中、服を着て部屋を出た。
次回
-カオルと 僕と そして今ー
#2 照らし出された駅のホーム