・・・・・ 前回のお話 ・・・・・
《私のやりたい100のこと》
95.私の中のモノをお話にして外に出す
カオルと 僕と そして今
#5 夜間専用入口
・・・・・ 夜間専用入口 ・・・・・
夜明けは近いものの、まだまだ太陽が出てきそうもない暗闇の中、テツオを助手席に乗せて地図を見ながら走り出した。
「日本人は地理に弱いね」
イギリス人の友人に言われたことがある。
一度通った道は忘れない。でも、初めての道はとっても苦手。頭の中で、自分が走る地図が完成しないとハンドルを握りたくないタイプ。
駅前の私たちのマンションから、北へ向かって細くてうねった坂道を上がって行く。
道路の両脇には外灯がポツリポツリとあるだけで、ちょっとした山の中のような雰囲気。
地図だけを頼りに、それもこんな暗い中を急いで病院に向かって急がなければ。
病院の名前の入った大きな門構えを通り過ぎ、正面の車寄せを横目に、建物の横にある入口を見つけた。
私は車を降りて、テツオを支えて歩こうとしたが、決して背が低くない私よりもさらに背の高いテツオの脇を支えたところで、私は全く役に立たない。
ぎくしゃくしながら夜間専用入口のボタンを押して中に入る。
さっき電話に出てくれたと思われる男性が、廊下の端にある待合いを案内してくれた。
しばらくして眠そうな先生が現れて、その先生の後についてテツオは診察室の中に入って行った。

ひっそりと静まり返った病院内には人の姿はなく、私一人が薄暗い待合室の細長いソファにぼんやりと座っている。
廊下の向うに四角い何かがぼんやりと光っている。
床に立てかけられた絵画か何かか?
ガラス窓だ。
廊下に面た壁の一部が四角く繰り抜かれていて、そこから箱庭のように作られた中庭が、小さな光でライトアップされていたのだ。
それが、ちょっとした絵画のように見えたのだ。
テツオを待つわずかな間に、夜は白々と明け始めた。
とても静かにほんの少しづつ。
まるで、この夜明を誰にも気づかれないようにしているかのようだ。
そして、ちょっと気難しそうな空の様子。
頭の先だけ地上に出し、眉間にしわを寄せて、今日の天気について考えているようだ。
晴れにすべきか、曇りにすべきか。
でも、どうやら一日の天気を決めるのは、この気難しい薄グレーだけではないようだ。
そのうちに薄黄色やオレンジ、ブルーなどがあちこちから寄り集まって、それぞれが勝手に自分の色で輝き出すと、気難しいグレーはどこかへ行ってしまった。

そんなガラス越しのやり取りもおさまって、今日の天気があらかた決まったころ、朝一番に受付をしに来た外来患者なのか、病室から朝の散歩に降りてきた入院患者なのか、数人の老人たちがロビーに集まってきた。
きっと毎朝こうしてここに集まり、お互いの体調や世間話などをして彼らの一日が始まるのだろう。
いずれにしても、彼らも病人であるはずなのに、妙にはつらつとして見えた。
その老人たちが、廊下の隅のソファに座っている私に気づき「いったい何者だ。部外者は立ち入り禁止だ」と言わんばかりの視線を私に投げかけたとき、テツオが車椅子に乗り看護婦に押されて戻ってきた。
私の前で車椅子からすっくと立ちあがると、看護婦にお礼を言ってテツオは歩き出した。
病院の正面入り口から裏の駐車場まで歩きながら、
「どうだった?」
「風邪だろうって。熱が高いから解熱剤を入れてもらって、飲み薬をもらったよ」
「そう、看護婦さんに解熱剤を入れてもらったの」
わざとすまして聞くと、眉間にしわを寄せた難しそうな顔をして
「あれって何で看護婦がやるんだろう。参るよな」
と言って、テツオも助手席に乗り込んだ。
来たときよりもずいぶん気分が良いようだ。
解熱剤は入れてもらうし、車椅子には乗せられて押してもらうし、まあ、とにかくこれで落ち着くだろう。
それにしても、今日は気持ちのいいお天気になりそうだよ。

・・・・・ 35℃ ・・・・・
部屋に戻ると、テツオは一人でベッドに横になるのは嫌だと言い出した。
まったく子どもじゃないんだから、と思いながら、なんだかすごく嬉しかった。
テツオは私を甘やかすようなことは決してしなかった。
「それは君の問題だから君が解決しなさい」という具合。
忘れてしまいたいような出来事も「君に起きた出来事でしょ?忘れたりしてはいけないよ」
知り合って間もないころは、何でも相談したいのに甘えることが出来ずに寂しい思いもしたけれど、でも、テツオはいつも私を見ていた。
私が伸ばしても伸ばしてもどうしても届かない、という場面では、この指先をそっとつまんで、必ず私をその夢に届かせてくれるのだった。
テツオと私はそれぞれの仕事の話も、くだらない悩みも、将来の話までもすることはなく、良い部分だけで向き合っていた。
そんな関係は、上辺だけで本当の愛ではない、と言った友人がいたけれど、愛にはいろいろな形があるもので、私はこの関係で精いっぱいだったのだ。
テツオを少し遠くに感じることもあるが、これから先も一緒にいれば、自然といろいろな部分が見えてくるだろうし、2人の関係も変わってくるだろう。
今のところ、私はテツオにしてもらうことばかりで、私が何かをしてあげることなどほとんど無かった。
だから今回の出来事をなんだか嬉しく思い、普段は決して見せない子どものようにわがままなテツオの姿をほんの少し楽しんでいた。

私はリビングにテツオの寝床を作るため、布団をベッドから引きずり降ろして、体を横にしながら退屈しのぎにテレビが見れるように、部屋中のクッションを集めて背もたれを作った。
「テレビもいいけど、体を休めたほうがいいんじゃないですか?」
「君も夕べから全然眠っていないだろ。少し休みなさい」
「うん、でも大丈夫。今日はいいお天気になりそうだし、眠ってしまったらもったいないもの」
私はテツオの後ろ姿が見える陽の良く入る窓辺に椅子を移動させて、今朝病院で見た今日の天気をめぐる空でのやり取りを思い出した。
まだ一日は始まったばかりだけど、家に閉じこもっていてはもったいないようなお天気になりそうだ。
結局、朝を始める気難しい薄グレーの出番は、黄色やオレンジ、ブルーが現れるまでのほんの少しの間だけだった。
今日はオレンジの彼が頑張ったけれど、薄グレーがそのまま居座って濃くなり、一日中気難しそうに雨を降らせるべきがどうするか、悩み続けたりするのだろう。
テツオと一緒にこの部屋にいて、こんなにのんびりと何もしない日曜日は初めてかもしれない。
薬が効いているようだ。
テツオは小さな寝息をたてて眠っている。
それを見ながら、私もいつの間にか夢の中に入り込んでしまった。

ふと目を覚ますと時計の針は昼前を指している。
陽だまりの中でつい眠り込んでしまった。
テツオはぼんやりとテレビを見ている。
「どう?気分は。食欲はある?」
「食欲は無い。気分は寒い」
「寒い?」
手を握ってみると、とても冷たい。それに、熱のために出ている汗ではなく、冷や汗のようなものをかいているようだ。
熱を計ってみると 35度だった。
「たいへん。35度しかない。下がり過ぎ。体温が無い」
と冗談めかしく言ったものの、テツオにとっては冗談どころの話ではなさそうだ。
私は人の生命が存在しうる必要な体温が何度なのか知らなかったので、この体温計に出たデジタル数字がどんなものなのか分からなかったが、テツオの顔色を見て、再び病院へ電話をかけてみた。
「うーん、35度というのはちょっとおかしいですけど、ご本人の気分が悪いようでしたら、もう一度いらっしゃいますか?」
テツオに効くと、首を縦に振る。
「じゃあ、お手数ですが、これから伺いますのでお願いします。
普段から決して大げさな人ではなく、逆にたまには病院へ行って健康診断か、せめて血液検査くらいはしたほうがいい、と言う私の言葉も聞かない医者嫌いのテツオが今回は妙に慎重だ。
それだけ具合が悪いのだろう。
とにかくもう一度、車を飛ばして病院へ向かった。
次回
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#6 バレンタインデーだから