・・・・・ 前回のお話 ・・・・・
《私のやりたい100のこと》
95.私の中のモノをお話にして外に出す
カオルと 僕と そして今
#6 バレンタインデーだから
・・・・・ 待合室 ・・・・・
土曜日の待合室は、午前の診療時間が終わってガランとしていたが、今朝の老人たちを含めて全体的にグレーだった色が、外からの光ですっかり明るくなっている。
ソファーの優しいサーモンピンクや壁にかかった絵が、まるで別な顔をしてテツオと私を迎え入れた。
診察室に入って行ったテツオはしばらくして前回と同様に車椅子で現れ、看護婦に「点滴をしますので、こちらの診察室へどうぞ」と言われた。
テツオと私はこっそりと目をあわせ、そうだよ、今朝来た時に点滴をしてくれれば良かったのに、という顔をした。
私たちはベッドのある狭い診察室に通された。
テツオは横になるより車椅子に座ったままのほうがラクだと言うので、そのまま点滴をすることになった。
「ゆっくり点滴が落ちるようにしますので、少しお時間がかかりますね。終わりましたら、そちらのナースコールで呼んでください」
看護婦が行ったあと、私たちは彼女の慣れた手つきと慣れたセリフにすっかり感心し、普段はじっくり見ることなどない診察室の中を見回した。
「ふーん、診察室って、よく見るとこんなになっているのね。なんだか雑然としている。見て、あの引出しに死亡診断書って書いてある。あんなところになるなんて、なんだかすごいね」
何気なく目に入ったこの小さな引出しは、この時私の興味を引いた多くの物の中の、単なる1つにすぎなかった。
「少し寒いな」
私にはちょうど良いこの部屋の温度は、テツオには少し足らないようだ。
「暖房の吹き出しがこっちへ向いているから少し車椅子を移動しましょうか」
さらに周囲を見回して毛布をやっと1枚見つけ出し、アニエスベーのコートを羽織っているテツオの膝にかけ、それでも足らないので私のダウンジャケットを肩にかけた。
「そうだ、暖かいコーヒーでも買ってきます。すぐに戻るから待っていて」
看護婦に言われた通り、点滴には時間がかかり、やっとの思いで終わった。
さあ、これで気分も良くなるだろうし、体力も少しは回復するだろう。

・・・・・ バレンタインデーだから ・・・・・
家に戻り、テツオをリビングに広げた布団に寝かせてから、私はゴルフのエンジンが冷めてしまう前に買い物に出た。
テツオの様子も良さそうだし、食欲は無いと言っていたけれど何か元気が出るようなものを作ってあげよう。
買い物から帰って部屋に戻ると、テツオはテレビを見ながらタバコを吸っていた。
風邪をひいて具合の悪いときくらいタバコをやめればいいのに。まったく。
前に、タバコとお酒が飲めなくなったら死んだほうがマシだ、そんなことを我慢してまで生きようとは思わない、と言っていたことがあった。
気持ちは分かるけど、何も胸が痛いと言いながらタバコを吸う事はないでしょうに。
後でこっそりマルボロの箱をどこかへ隠してしまおう。
「食欲はあるかしら?」
「ない」
気分が悪いのか、くわえタバコのままでボソッと答えた。

ワインを選ぶ時に迷って時間がかかってしまった。帰りが遅くなったことを怒っているのかな。
今夜のテツオはこのワインを飲めないかもしれないけど、バレンタインデーだもの。
今日こそは言ってしまおう。
この日ならば許されるよね。
夕べから私に手をかけさせたのだもの、今夜こそテツオを抱きしめて、はっきり「愛してる」と言おう。
今夜ならば言える気がする。
窓の外がすっかり暗くなり、そろそろ夕食の支度を始めようかと思っていたとき、テツオが2,3回の咳をして「あっ」と小さく叫んだ。
「どうしたの?」
「ほら血」
見ると白いティッシュの上に、少しではあるが確実に赤い血がついている。
「咳をした時に、のどの粘膜を傷つけてしまったんじゃない?」
と言ってみたが、それほど激しい咳などテツオはしていない。
こんど病院へ行けば三度目だし、ただの風邪に大騒ぎをしているようで正直なところ恥ずかしいような気持ちになってた私に比べ「おれの体はいったいどうなっているんだ」と心細そうにポツリと言ったテツオを見て、三度病院へ行く事にした。

すっかり覚えた道をフォルクスワーゲンゴルフで飛ばし病院へ着くと、朝とも昼とも違う表情の待合室でテツオを待った。
しばらくして看護婦と一緒にドクターが私に近づいてきた。テツオの姿は無い。
「いやあ、何回もこうして来るのでは奥さんも大変だから、今日はこのまま入院されてはいかがですか。今もご本人は少し辛い様子なので」
そうだ、そうしてもらおう。
素人判断で不安なままでいるよりも、こうしてテツオが病院へいれば安心なのだ。
呼べはいつでも看護婦が様子を見に来てくれるのだし。
入院の手続きをする際、テツオ以外に同行者名の記入欄があったので、私の名前を書き入れた時、看護婦が不思議そうな顔をして私の顔と記入した名前とを交互に見た。
「あ、一緒に住んでいるんですけど、苗字は違うんです。いいでしょうか」
彼女がどう解釈したのか分からないが、余計なことは聞かずににっこり笑っていった。
「大丈夫ですよ、手続き上の書き込みだから。問題ありません」
看護婦に案内されてテツオの病室へ行く途中、ナースセンターの前でドクターに呼び止められた。
「奥さん、奥さん、ちょっと。家で吐かれた血液は、いまお持ちですか?」
「いいえ、持っていません。でも吐いたというより、ティッシュに付いたというくらいで」
「では、こんなではなかった?」
プラスチックのゴミ箱を見せられて驚いた。家で見たときとは全く違うたくさんの血液が、ティッシュペーパーにべとりと付いていた。
そしてその血にまみれたティッシュが、ゴミ箱の中で何重にも重なっていた。

「全然こんなじゃないです。ほんの少しでしたから」
「分かりました。とにかく病室へ」
なんだか事の成り行きが理解出来なかった。
見せられたものは本当にテツオのものなのだろうか。血液を吐く、という事はどういうことなのだろうか。
病室へ入ると、若い看護婦が点滴をセットしたり、ベッドを整えたりしていた。
私の姿を見るなり
「あの、ここは完全看護ではないので、奥さんもお泊りになれますけど、どうしますか?」
「はい、お願いします」
「そうですよね。奥さんが帰ってしまったら、ご主人は寂しくなっちゃいますよね」
次回
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#7 救急搬送